定年後のゆる〜くたのしい日々

〜読書、語学、パソコン、音楽などをたのしむ日々のくらし〜

村上春樹作品 と しなやかな感性


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あらためて振り返ってみると、このところ二ヶ月近くずっと村上春樹作品に没頭しています。
それも、これまで読んでこなかった、いや、読もうとしても読み続けることができなかったフィクションばかりを!
そして、今現在も最新の長編小説騎士団長殺しを面白く読んでいる最中です!

 

最近のブログでも、その突然変異(?)の理由らしきものを列挙し整理してみました。
しかし、いかんせん、それらの理由とおぼしきものはすべて後付けで考えたものでしかありません!

 

後付け理由で自らもいったんは納得するものの、それでも、いったいどうなってしまったのだろう?という不安が心をよぎります!
固苦しい言葉で言うと、
「理性が感性を統御できていない」
言い換えれば、
「しなやかな感性の変化に理性が追い付けなくてとまどっている」

 

理性というものは、良く言えば(?)「口が上手くてどうにでも理屈をこねられる評論家」、悪く言えば「融通がきかなくてフットワークの悪い偏屈野郎」!(どっちもいいことないじゃん!)
体や感性が少しずつ変化していることに気付かなくて、「だ〜るまさんがこ〜ろんだッ!」と言って振り返ったとき、タッチしようとして間近に迫って来た友だちにはじめて気付いて驚くようなものです!

 

そう言えば、定年後の生活を送るような歳になっても、なんとなく自分で意識しているのはずっと若い頃の年齢!
このことは、世間一般でもよく言われます。
みんな精神年齢はずっと若いのです!

 

他方、体の方は、時間の経過につれてドンドン容赦なく変化していきます!
体を構成している細胞は、何ヶ月かでほとんどすべて入れ替わってしまいます。
体の変化に応じて感性も影響を受けないわけがありません!
そして、一人あとにポツンと取り残されるのは理性!

 

時代の変遷や世の中の移ろいの中で、かたくなな姿勢のあまり、時代の波に取り残され、最後はその後始末をせざるを得なくなる企業や政治の上部組織も同じパターンかも?!
ナビに地図情報の絶えざる更新が必要なように、理性や企業・政治の上部組織もひとところに留まり硬直化していては濁りが生じとうてい目的地に到達できなくなります。

 

そこで、ふと思ったことに、ノンフィクションを理性とするとフィクションは感性ということになるのでは?!
読書の対象が、これまで主にノンフィクションだったのが最近フィクションに移ってきたのは、頭も体もいまギスギスした理性ではなく潤(うるお)いのある感性を求めているのかもしれません・・・

 

村上春樹作品こそ、しなやかな感性そのもの!!