「弓と禅」(オイゲン・ヘリゲル)を読みました。
最近読んでいる本とは大きく傾向が異なっています。
新聞で簡単な内容の紹介を読んで興味を持ち読むことになりました。
本当に不思議な話しなのです。
これはフィクションではなくて体験に基づいた事実で、こういう世界もあるのかと改めて考えさせられました・・・
作者は、ドイツの哲学者です。
昭和の初め、日本に来て東北帝国大学で哲学を教えることになりました。
そのかたわら、禅に興味を持っていたので習おうとしましたが、言葉で説明することを拒否する禅を外国人が直接学ぶのは困難だとアドバイスされ断念しました。
代わりに、禅へも通じる弓道を学ぶことにしました。
禅の精神で弓道を極めた先生の指導のもと、ヘリゲル氏は練習に励みます。
現代のスポーツとしての弓の練習ではなく、精神に重きを置いた修練でした。
呼吸法を基礎とした初期段階では、遠くの的(まと)に向けて弓を射ることはせず、すぐ目の前に置いているワラに矢を放つだけでした。
あくまでも、呼吸を整え弓の弦をひきしぼることに終始しました。
やっと、30メートル先に置かれた的に向けて矢を射る段階に入りました。
遠くの的をねらい矢を放ちますが、なかなか的に当たりません。
練習を見ていた先生は言いました。
矢を的に当てようと意識してはいけない。
引き絞った弦を意識して放つのではなく、機が熟して自然に弦が指から離れるのを静かに待たなくてはいけない。
ヘリゲル氏はなお練習に励みますが、思うようにいきません。
必死に的をねらうヘリゲル氏を見て、さらに先生は言いました。
的をねらってはいけない。
呼吸を整え機が熟して矢が自然に放たれたなら、自然に矢は的に当たるのです。
私の矢を放つ所作を見て、私が的を直視していないのを確かめなさい。
先生はヘリゲル氏の前で弓を引きました。
先生の目は坐禅のときのように半眼で身体の力が抜けたように穏やかな中、静かに矢が放たれました。
矢は的に命中しました。
なお納得できないヘリゲル氏は先生に向かって言いました。
先生は長年的に向かって矢を射ているので、的を意識的に見ていなくても無意識のうちに的をねらうことに慣れているのではありませんか。
先生はヘリゲル氏をじっと見つめこう言いました。
それでは、今夜この道場へ来なさい。
夜、ヘリゲル氏は道場へ行きました。
明かりのない真っ暗な中、先生は的の前に線香を1本立てました。
矢を放つ位置からは1本の線香の明かりでは的はほとんど見えません。
先生は静かに弓を取り、矢をつがえ、弦を引きしぼり、矢を放ちました。
続いて2本目の矢も放ちました。
2本の矢の飛んだ先は暗くて見えません。
先生はヘリゲル氏に言いました。
的のところへ行って見て来なさい。
ヘリゲル氏は、暗闇の中を的に向かって歩いて行き、すぐ前まで近づいて的を見た時、驚きのあまりその場に座り込んでしまいました。
1本目の矢は的のど真ん中に突き刺さっていました。
2本目の矢は1本目の矢の軸を貫ぬいて的を射ていたのでした・・・
「弓矢」と「的」と「私」が渾然一体となる不思議な世界!!