定年後のゆる〜くたのしい日々

〜読書、語学、パソコン、音楽などをたのしむ日々のくらし〜

「1Q84」と フィクションの魅力(その2)

1Q84 BOOK1-3 文庫 全6巻 完結セット (新潮文庫)

前回ブログで述べたような思いを抱きながら長編小説「1Q84」(村上春樹)を読み始め、最後まで物語の面白さに堪能しながらこの大部のフィクションを読み終えたのでした。

 

では、8年前に感じた違和感(それまで読んできた文章やストーリーと大きくかけ離れた読後感)はどうなったのでしょう?
実は今回読み通してみて自分でも不思議に思ったのは、以前に感じた文章(文体)の違和感をまったく感じなかったことでした!
違和感を感じないどころか、「なんとうまく表現しているのだろう」と読みながら感嘆するばかりでした!

 

その理由を考えてみました。
この定年後の8年のあいだに様々な本を読みあさり、文章に対する感じ方が変わったからなのか?
それとも、食べ物の好みのように年齢を重ねるに連れ好みが変わったからなのか?
あるいは、ブログでつたない文章を書き始めて、文章の見方が変わったからなのか?

 

いや、それらの理由のほかにそれらをはるかに上回ると思われる理由があります!
村上春樹氏の文章は、長い年月にわたって使われ確立された、ある意味では古くなった日本語の表現方法とキッパリ手を切り、分かりやすく平明で、なおかつオリジナルな表現方法を目指して新たに切り開いたものだ、ということを読む前にしっかり心に刻んでおいたからなのだと思います。

オリジナルな表現方法と言えば、読みながら、各所に出てくる斬新な比喩のオリジナリティーに感心することしきりでした!
例えば、
「カーペットは厚く柔らかく、極北の島の太古の苔を思わせた。
「誰も彼もが会話の途中で好き勝手に電話を切ってしまう。まるで鉈をふるって吊り橋を落とすみたいに。
「彼女はまるでレンブラントが衣服のひだを描くときのように、注意深く時間をかけてトーストにジャムを塗った。」
「長い沈黙が降りる。細長い部屋の向こう端まで歩いて行って、辞書を手にとって何かを調べ、また戻ってくるくらいの時間がある。
などなど・・・

 

最近よく耳にする言い方に、フィクションを上回るような現実の事件が続発し、フィクションが後手に回ってしまっている、というのがあります。
確かに想定外の事件がテレビのニュース番組で報じられることが多く、フィクションの存在意義が問い直されることもありますが、それでも、フィクションでしか描ききれない真実というのがあるのだと思います。
抽象的で不毛な議論はやめておくことにして、少なくともこの大部の物語(フィクション)を読んでいるあいだ、常に生き生きとした充実感に充たされていたことは確かで、それで十分なのではないでしょうか!

 

また、登場人物も超個性派ばかりで、なかでもスーパーレディ「青豆」は、最初の登場からその行動にずっと目を奪われるばかり!
また、悪役の部類ながら、読み進めるに連れて、そのいぶし銀の魅力のとりこになったのは「牛河」でした!
生まれついての奇妙な外見を持ちながらも、おのれの能力を信じ、自らを「有能で我慢強く無感覚な機械」と断じ、黙々と日の当たらない世界で生息する愛すべき人物!
ああ、彼の運命やいかに・・・

 

Welcome to the World of "1Q84 "!!

 

 

 

 

 

「1Q84」と フィクションの魅力(その1)

1Q84 1-3巻セット

「1Q84」(村上春樹)を読み終えました。
BOOK1・2・3の3分冊で各巻が500〜600ページの大部な長編小説!
8年前にはじめて発売されたとき、本屋の店頭で少し目を通しただけであえなく撤退したシロモノ!
最近、村上氏の小説を2冊(短編・中編)読み、それから恐る恐るこの長編に立ち向かったのでした。

 

以前はまったく魅力を覚えなかった作品が、定年後の生活を送る今の自分にどう映るのだろうかという興味もありました。
というのも、平凡なりにそこそこの人生経験を積んで定年を迎え、また、読書を中心とするその後の穏やかな生活のなかで、それまで霧の中のように今ひとつピンとこなかった作品が突然その姿を露わにし、砂地に水が染み入るように胸にストンと落ちる思いを覚えたことが一度ならずありました。
それまで拒否反応を示していた村上作品(フィクション)はどうなんだろう、と興味を持ったわけでした。

 

また、学生時代を除いてずっと敬遠してきたフィクションに対する自分の中での再評価もありました。
あるときテレビで、若い俳優が田舎の一般の家を訪れ、いろんな話しを聞くという番組を見ました。
その家の奥さんや娘さんは、突然のイケメン俳優の訪問に驚きながらも感激していました。
そこへ見るからに頑固そうなジイサンが奥の部屋から現れ、その俳優を知っているかと問われ、知らないと答えました。

 

そのときのジイサンの言ったことは次のようなものでした。
『自分がテレビで見るのは事実をそのまま伝えるニュースとドキュメンタリー番組だけ。
現代劇や時代劇のドラマはウソの作りものなので、自分はいっさい見ない。
だから、俳優の名前を知らないのも当然』

 

この融通が効かなさそうなジイサンの、世界がひっくり返っても曲げないだろうと思われる金科玉条を耳にして、ひとごとではない不思議な感情が湧いてきました。
このジイサンの主張こそは、これまでわたしがフィクションについて抱いていた考えにほかならなかったからでした!
古い友人や家人などにも事あるごとにその考えを披露してきました。
それだからこそ、これまでずっとフィクションを敬遠してきたのでした。

 

ところが、これまで自分が大事に抱いてきた考えが、田舎の頑固ジイサンの口から得意そうに語られるのを第三者の立ち場で聞いたとき、ムラムラとへそ曲がりの感情が湧き上がってきました!
「フィクションとは、果たしてそんなヤワなモノなのだろうか?」
「ノンフィクションとは、そんなにありがたいモノなのだろうか?」
「上質なフィクションこそ、低質なノンフィクションが束になってもかなわない真実を捕らえることができるのではないのか?」

 

この偏屈でへそ曲がりの感情も、村上春樹氏のフィクションをあらためて読み始めた原因の一つと言えなくはありませんでした。
こうした状況で長編小説「1Q84」を読み始めたわけですが、BOOK1の初めから超個性的な女性「青豆」の魅力に捕えられ、ページを繰るに連れフィクションの魅力の渦の中にグイグイ巻き込まれ、そのままBOOK3の最後まで引っ張られてしまったのでした・・・
(To Be Continued)

 

上質なフィクションと低質なノンフィクション、お好きなのはドッチ〜!!