定年後のゆる〜くたのしい日々

〜読書、語学、パソコン、音楽などをたのしむ日々のくらし〜

「1Q84」と フィクションの魅力(その1)


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1Q84 1-3巻セット

「1Q84」(村上春樹)を読み終えました。
BOOK1・2・3の3分冊で各巻が500〜600ページの大部な長編小説!
8年前にはじめて発売されたとき、本屋の店頭で少し目を通しただけであえなく撤退したシロモノ!
最近、村上氏の小説を2冊(短編・中編)読み、それから恐る恐るこの長編に立ち向かったのでした。

 

以前はまったく魅力を覚えなかった作品が、定年後の生活を送る今の自分にどう映るのだろうかという興味もありました。
というのも、平凡なりにそこそこの人生経験を積んで定年を迎え、また、読書を中心とするその後の穏やかな生活のなかで、それまで霧の中のように今ひとつピンとこなかった作品が突然その姿を露わにし、砂地に水が染み入るように胸にストンと落ちる思いを覚えたことが一度ならずありました。
それまで拒否反応を示していた村上作品(フィクション)はどうなんだろう、と興味を持ったわけでした。

 

また、学生時代を除いてずっと敬遠してきたフィクションに対する自分の中での再評価もありました。
あるときテレビで、若い俳優が田舎の一般の家を訪れ、いろんな話しを聞くという番組を見ました。
その家の奥さんや娘さんは、突然のイケメン俳優の訪問に驚きながらも感激していました。
そこへ見るからに頑固そうなジイサンが奥の部屋から現れ、その俳優を知っているかと問われ、知らないと答えました。

 

そのときのジイサンの言ったことは次のようなものでした。
『自分がテレビで見るのは事実をそのまま伝えるニュースとドキュメンタリー番組だけ。
現代劇や時代劇のドラマはウソの作りものなので、自分はいっさい見ない。
だから、俳優の名前を知らないのも当然』

 

この融通が効かなさそうなジイサンの、世界がひっくり返っても曲げないだろうと思われる金科玉条を耳にして、ひとごとではない不思議な感情が湧いてきました。
このジイサンの主張こそは、これまでわたしがフィクションについて抱いていた考えにほかならなかったからでした!
古い友人や家人などにも事あるごとにその考えを披露してきました。
それだからこそ、これまでずっとフィクションを敬遠してきたのでした。

 

ところが、これまで自分が大事に抱いてきた考えが、田舎の頑固ジイサンの口から得意そうに語られるのを第三者の立ち場で聞いたとき、ムラムラとへそ曲がりの感情が湧き上がってきました!
「フィクションとは、果たしてそんなヤワなモノなのだろうか?」
「ノンフィクションとは、そんなにありがたいモノなのだろうか?」
「上質なフィクションこそ、低質なノンフィクションが束になってもかなわない真実を捕らえることができるのではないのか?」

 

この偏屈でへそ曲がりの感情も、村上春樹氏のフィクションをあらためて読み始めた原因の一つと言えなくはありませんでした。
こうした状況で長編小説「1Q84」を読み始めたわけですが、BOOK1の初めから超個性的な女性「青豆」の魅力に捕えられ、ページを繰るに連れフィクションの魅力の渦の中にグイグイ巻き込まれ、そのままBOOK3の最後まで引っ張られてしまったのでした・・・
(To Be Continued)

 

上質なフィクションと低質なノンフィクション、お好きなのはドッチ〜!!