定年後のゆる〜くたのしい日々

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「職業としての小説家」と 村上春樹のオリジナリティー


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職業としての小説家 (新潮文庫)

「職業としての小説家」(村上春樹を読みました。
書店で本のタイトルを見回しているときこの文庫本が目に入り、読んでみようと思いました。
村上春樹氏の作品に対しては、「親近感」と同時になにか「違和感」のようなものも感じていたので、その理由がわかるかもしれないと思ったからでした。

 

これまで読んだ村上春樹氏の作品は、一月ほど前にブログで取り上げた「セロニアス・モンクのいた風景」のように、ほとんどエッセーが中心でした。
村上春樹氏のエッセーは、読みやすく分かりやすく、著者の誠実さが現れているような文章で気に入っていました。

 

一方、氏のフィクションについては、ずっと以前に中編小説を二つほど読んだだけでした。
読んだのはもう十数年前なのでよく覚えていませんが、たしか読後感はイマイチだったように記憶しています!
その後、氏の作品はエッセーしか読まなくなり今にいたっています。

 

氏のフィクションは、読みやすくスラスラ読み進むのですが、何か物足りなく感じ、読んでいるあいだ今に何かが始まる、と期待しているうちに物語は終わってしまい、肩透かしを食ったような気持ちになりました。

 

ところが、村上春樹氏の作品は、出版されるごとにベストセラーの連続で、海外でも評判がよく、さらには、毎年ノーベル文学賞の最有力候補に挙がるくらい評価されています!
とすれば、作品の問題ではなく、わたしの読み方がうまく対応できていないのかもしれません。
ただ、高名な文芸評論家の中にも、氏の作品を高く評価しない人もいるそうなのですが。

 

そのような疑問を抱いてこの「職業としての小説家」を読み始めました。
氏はこの本で、小説を書き始めたきっかけ、小説を書くうえでの心構え、文学賞についてなどなどを述べていて、氏の小説や読者に対する熱く真摯な気持ちが伝わってきます。
そのなかで、特にわたしが注目したところがありました。

 

氏は、早稲田大学在学中に学生結婚し、アルバイトで貯めた資金と借金とでジャズ喫茶を始めました。
店は、なんとか軌道に乗っていきましたが、29歳のあるよく晴れた午後、氏は神宮球場に野球を見に行きました。
一回の裏、ヤクルトのヒルトンがレフトに二塁打を打ったときでした!

『バットがボールに当たる小気味の良い音が、神宮球場に響き渡りました。ぱらぱらというまばらな拍手がまわりから起こりました。僕はそのときに、何の脈絡もなく何の根拠もなく、ふとこう思ったのです。「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と。』

 

氏は野球を見た後、さっそく万年筆と原稿用紙を買い、はじめての小説風の歌を聴けを書き始めたのでした。
数ヶ月が経ち書き上げたとき、はじめから読み直してみました。
すると、ギクシャクした文章であまり良いとは思わなかったそうでした。
この後、誰もが驚くような方法で文章をすべて書き直したのです!

 

その方法とは?!
なんと、英語を使って最初の章を書き直しました!
次に、それを日本語に翻訳しました!(もちろん直訳ではありません)
そのあとは、訳した日本語と同じ調子の文章で最後まで書き直したのでした。
氏は、使い古され、手垢にまみれた古臭い日本語の言い回しを極力避け、平明な新しい日本語の表現方法を模索し、氏独自のオリジナルな文体を構築しようとしたのでした!

 

ここがポイントのように思えました!
近代日本文学を築いてきた明治・大正・昭和の小説家の作品を読んだときの読後感を、そのまま氏の作品に期待してはいけないのでしょう!
たとえば、絵画で言えば、ピカソマチスのようにシンプルな色や線であらわされた現代絵画を見るときに、ダ・ヴィンチラファエロのような古典絵画の精密な写実性を求めないのと同じことなのではないでしょうか!

氏のエッセーを通して頭で理解できたように思えましたが、はたしてあらためて氏のフィクションを読み直したとき、日本語の古い文章に慣れた感覚が氏のオリジナリティーを理解することができるのでしょうか・・・

 

昔、途中でやめた「風の歌を聴け」を読み直してみようか!!