定年後のゆる〜くたのしい日々

〜読書、語学、パソコン、音楽などをたのしむ日々のくらし〜

「幕末武士の失業と再就職」と 御城番屋敷(ごじょうばんやしき)

幕末武士の失業と再就職 (中公新書)

久しぶりで歴史関係の本を読みました。
「幕末武士の失業と再就職 紀州藩田辺詰与力騒動一件」(中村豊秀)というタイトルの新書本。
この本を読もうと思ったのは、今まで司馬遼太郎の幕末動乱の時代を背景にしたいろいろな物語を読み、明治に移る寸前の幕末に興味を抱いていたのが一つ。
もう一つは、生まれ育った和歌山、紀州藩に関連した事件を取り上げていたからでした。

 

そもそも、この騒動は、紀州藩筆頭家老の安藤家とその安藤家から扶持(ふち:米で与えられる給与)を受けていた与力(よりき:与力職の武士)二十名との間に、先祖代々くすぶっていた火種から起こったものでした。

 

幕末からさかのぼること二百数十年、大阪冬の陣・夏の陣が終わり、家康の天下取りが終結し、全国に諸大名の国替えを実行したとき、頼宣を紀州藩主に命じました。
そのとき、安藤家の先祖の安藤直次紀州藩家老に命ぜられ、また、与力たちの先祖も安藤家の領地に赴くことを命ぜられました。

 

このとき、帰属関係が明確にされなかったため、与力たちは、扶持は安藤家から受けてはいるが、自分たちは安藤家の家臣でなくれっきとした紀州藩主の直臣であるとの自負を持ち、それを快く思わない安藤家と二百年に渡って諍いを繰り返し、刃傷沙汰に至ることもありました。

 

そして、幕末の安政二年(1855年)のある日、安藤家から与力たちに通達が寄せられました。
その内容は、与力たちは、安藤家の領地に住み安藤家から扶持を受けているのだから、安藤家の家臣に違いなく、今後は、何事においても安藤家の家臣として振る舞うように、というものでした。

 

これに対し、先祖代々、紀州藩主の直臣であることを自負してきた与力たちは、この通達に反発し、これから一年三ヶ月に渡り、安藤家、さらには、安藤家の肩を持つ紀州藩に対しても執拗に自説を主張し続けましたが、ついには、聞き入れられる見込みのないことに落胆し、みずからお暇願いを申し出て、浪人の生活へと落ちていったのでした・・・

 

それから、苦節六年余の浪人生活を経た後、元与力二十名は、揃って紀州藩の士分への帰参を願い出たところ、幕末の紀州藩を取り巻く時代の流れも大きく変わったこともあり、ついに、願いが聞き入れられ、二十名は、当時紀州藩の所領であった松阪の御城番(ごじょうばん)に任ぜられたのでした・・・

 

彼らの住まいは、松阪城のすぐ近くに新たに建てられた御城番屋敷でした。
今は、松阪城は城跡だけで残っていませんが、御城番屋敷は現存し、彼らの子孫が今も住んでいる家があるそうです。

 

実は、昨年、本居宣長旧宅や松坂城址を訪れるため松坂へ行った折、御城番屋敷も見て回っていましたが、与力二十名と紀州藩家老安藤家との騒動にまつわる経緯はまったく知らず、この本を読むうちにはじめて知るところとなり、その奇遇に驚き、改めて昨年撮影した生け垣に囲まれた御城番屋敷の写真を感慨深く眺めることとなりました・・・

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浪人となった与力の妻が、長年住んだ家を去る朝、半折に書きつけ、花を生けた床の間に置いていった句
「飛ぶ蝶も 風に吹かれて 行くや秋」