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定年後のゆる〜くたのしい日々

〜読書、語学、パソコン、音楽などをたのしむ日々のくらし〜

「太田城水攻め」と Chromebook

歴史 読書

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総光寺由来太田城水責図・部分(惣光寺蔵)

  以前、忍城(おしじょう)の水攻めを描いた「のぼうの城」(和田竜)を読み、ブログ(「のぼうの城」と Chromebook)でも取り上げましたが、城の水攻めに興味を持ちました。

 秀吉の行った日本三大水攻めとは、岡山県高松城・埼玉県忍城和歌山県太田城の3つの城に対してでした。

 この中で、わたしが和歌山出身なので太田城に俄然興味を持ったのは言うまでもありませんでした。

 Amazonなどで太田城水攻めに関する本を探しましたがなかなか見つからず、やっと「中世終焉 秀吉の太田城水攻めを考える」(海津一朗編)を見つけ出して読んだわけです。

 

 太田城の水攻めについては、城の場所や堤の規模・場所などが明確でなく、諸説あるようですが、一部堤が残っているのを調査したりして、おおよそ次のようなものだったそうです。

[水攻め堤] 総延長7km、高さ7m、上部幅9m、下部幅30m

[築堤期間] 約1週間

[太田城敷地] 東西約300m 南北約200m

[太田城本丸] 和歌山駅東側に位置する来迎寺(らいこうじ)が本丸旧地と伝承されています。

 

 太田城から発射される鉄砲の玉が届かない距離で、太田城をグルっと囲むようにして、昼夜を問わず突貫工事で堤を築きました。

 水攻めに必要な紀の川や大門川の水を導入するため、堤の東側は円を閉じず平行線となって川まで伸ばしました。

 堤が完成し、川の水が堤内の田畑に一気に流し込まれ、4日後には堤内は湖となり、太田城は浮島となってしまいました。

 そして、約半月後、太田陣営は降伏・開城、武将53人斬首、女23人磔(はりつけ)に至ったのでした・・・

 

 太田城をネットや本で調べる過程で、現在の来迎寺(らいこうじ)の位置に太田城の本丸があったことを知り、グーグルマップで来迎寺(らいこうじ)の位置を確認したところ、

 お、おーどーろーきーッ!

 わたしが小学生だった頃、親類の家へ行き、従兄弟とよく遊んだのですが、その親類の家が建っていたところ(今は引っ越ししている)は、来迎寺(らいこうじ)のすぐ「となり」だったのでした!

 わたしと従兄弟は、いつも寺やその周辺を走り回って遊んでいました。

 住居地を少し離れると、あたりは見渡すかぎりの水田が広がり、はるか遠くに日前宮の森が小さく見えていました。

 430年前の昔とは言え、実は太田城の本丸の中を走り回っていたのでした!

 

 その後、一面の水田地帯も開発の波が押し寄せ、水田は広い道路やビルや店舗などに変わってしまいました。

 今もなつかしく思い出される見渡すかぎりの水田の風景は、太田城水攻めの頃とあまり変わっていなかったのでは、という気がします・・・

 

 400年余り昔の水攻めの現場にいざなう Chromebook!!