定年後のゆる〜くたのしい日々

〜読書、語学、パソコン、音楽などをたのしむ日々のくらし〜

英語について −「ことばの原っぱ」−


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 孫のチビさんたちは、おもちゃでさんざん遊んだ後、いつもなかなか片付けようとはしません。

 この間、早く片付けるようにと言うと、妹の「ちびまる子」が歌い出しました。

   ♪  プレマ、プレマ

     ちょっとまって

     プレマ、プレマ ♪

 なんのことかわからず何度か聞いてみるとやっとわかりました。

 「プレマ」というのは「プレイバック」のことで、山口百恵の「プレイバックPart2」がコマーシャルで流れているのを覚えたのでした。

 こまったもんです!!

 

 英語のアクセントがあって強調される音だけを耳で捕えるのでこうなるのです。

 こういった例は、外来語にたくさんあります。

 "White Shirt" → 「ワイシャツ」

 "American" → 「メリケン」

 "Machine"  → 「ミシン」 etc.

 

  さて、ここで「ことばをおぼえる」とはどういうことか考えたいと思います。

 頭の中には「ことばの原っぱ」があるのだと思います。

 生まれたとき、この原っぱは一面草ぼうぼうです。

 それからは、日本語で絶えず話しかけてくれる主に母親に手を引かれて、この草ぼうぼうの原っぱを少しずつ少しずつ歩いて行きます。

 原っぱはすべて草におおわれ、道がまだありません。

 草に足を取られてころんでばかりです。

 でも、優しい母親がすぐに助けてくれ、また歩き出します。

 繰り返し繰り返し同じ草の上を踏み続けていると、草がしだいに踏み倒され、地面が少しずつあらわれてきます。

 回りで導いてくれる人も、両親、兄弟、祖父母、遊び友達などから学校の先生や同級生などへと広がっていきます。

 これを何年も何年も続けていると、あたりいちめん草の海だった中に、最初は「けものみち」のような細い細い道、さらに、その道をどんどんたくましくなっていく足で何年も何年も踏みしめて行くと、「ことばの原っぱ」の中に一本の幅が広く歩きやすい「日本語の道」ができあがっていきます。

 このように、「日本語の道」ができあがるということは、たいへんな年月と訓練のたまものなのです。

 しかし、いったん成長した後では、この幼児期からの不休の訓練を忘れてしまい、なんの努力もせずに自然に日本語が習得できたと勘違いしてしまいます。

 そして、英語を習うには、英語を話す外国に居さえすれば、自然とマスターできるものだと勘違いし、数年間、語学留学したものの簡単な日常会話の習得だけに終わって帰って来るということがよくあります。

 日本人が英語を習うということは、「ことばの原っぱ」にすでにできあがっている幅が広く舗装された「日本語の道」の外側の一面の草の中に、新たに「英語の道」を作っていくことだと思います。

 快適な「日本語の道」になれた足は、草ぼうぼうの上を歩いて行くのに耐えられず、たちまち疲れてころんでしまいます。

 苦労してやっと細い道のようなものができたとしても、ほんのしばらく歩くのをさぼると、すぐに草が生えてもとの草ぼうぼうに戻ってしまいます。

 今はなにも思わず気軽に使っている日本語も、小さい時から苦労に苦労を重ねて身に付けてきたものだ、ということをよく自覚し、英語を習う時もそれだけの努力と時間が必要なのだと認識し、根気よく草を踏みしめ踏みしめ努力していかないといけないのだと思います。

 

 ちびまる子 「じいちゃん! えらそうに言うな!!」

 ともぞう  「わかりました。」